2020年10月18日
四谷新生教会礼拝説教 柳下明子 牧師
「人生の目的」フィリピ3:7-21
わたしは、日本聖書神学校という牧師養成学校で働きを持っていますが、ほかのどの教育職とも同じように時々どうしようもない困難に突き当たることがあります。学生がどのように学んでくれるのか、ということです。ところが、この神学校での教育の困難は、他の学校における課題とはちょっと異なるものがあります。たいていの学校では、達成できること、点数を稼ぐことが学生に求められます。けれども神学校ではそうではないのです。これから牧師になろうという学生は、達成できることが評価されるわけではありません。これから牧師になろうという人、神学生は達成できることを主張するより、自分が達成できないことまなぶことが求められます。自分にかけているところを見つめ、自分が達成できないことと向き合わなくてはならないのです。そしてそのような自分と向き合うのは、その学生が人間の社会でいわゆる成功者であるほど、何かを成し遂げてきた人であればあるほど、難しい。それが、神学校における教育の困難の特徴です。
人生で目指すべきことは何か、人はそれぞれに異なる人生の目的を持つことがあります。人間は社会的な生き物ですから、社会関係に身を置いている間は、さまざまな側面における達成が、意味を持つことがあります。
あるひとにとっては、重要なのは財産をなすことであるでしょう。他の人にとっては、家庭を持ち子どもを育てあげることかもしれません。そして別の人にとって人生に重要な意味を持つのは、なにがしかの影響力を社会でもつことであるのかもしれません。こうして、それぞれの個人にとって、生の目当てとするべきものはそれぞれに違うものであるのでしょう。固有の生の中に固有の目的がある、それは当然のことです。けれども、それらの生の目当てにどれも共通して言えることがあります。
それは、人間の作り出す関係において成立するものを生の目当てにおくとするならば、それにはそれぞれに必ず終わりの時が訪れるということです。終わり、と言う言葉が妥当でないならば、完成、達成の時と言ってもいいかもしれません。蓄財を生の目当てにした人にはその生の目当ての完成の時が訪れます。安心できるだけの、または満足行くだけの富を蓄えてしまったら、その人は生の目的を達成したことになってしまいます。子どもを育て上げることを生の目標に置いていた人は、子どもたちが巣立っていったら、生の目当ては終わってしまう。そのようなものです。人間が、自分の生の目当てを、人間の間の関係にのみ置いている限りでは、それは必ず、終わりの時、目標達成の時を迎えてしまうと言うことなのです。
そしてそのような生の目当ての完成の先の、終わりの先の生の歩みは人にとってどのようなものになるでしょうか。それは目当てを失い、むなしい日を一日一日おくることになってしまう。
けれどもわたしたちの生の目当てはそのようなものではありません。
聖書はわたしたちに、そうではない生の目当てを示してくれます。今日礼拝で読まれた聖書、フィリピの信徒への手紙では私たちの生を違う向きへと向けさせてくれるのです。
手紙の中でパウロが伝える生の姿は、生の目標を地上ではないところに持つものです。パウロの言葉によれば「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」というものであり、パウロはその「目標を目指してひたすら走ること」こそ、自分のなすべきことであると言い表しているのです。その賞とはどのようなものであるのか、ここでは語られてはいません。なぜならそれは、パウロもまだ手にしてはいないものだからです。パウロもまだ、それを「目指して」走っている途上にあるものだからです。
面白いことにここでパウロは「わたしたちの中で完全なものはだれでも、このように考えるべきです」と言います。「すでに完全なものとなっているわけで」はない自分のなすべきこととして、賞を目指して走ることを語るのに、それを聞く人には、「完全なものは」このように考えるべきだと、語るのです。
聖書の言葉にわたしたちは矛盾を感じないでしょうか?もし人が「完全」であるなら、そこより先に人間が目指すべきものはないはずです。もし人が「完全なもの」であるのなら、それ以上なにか努力する必要などないのではないでしょうか?それなのに、パウロは「完全な者はこのように考えるべきだと」言います。
そもそも人にとって完全とは何でしょう?パウロは、完全ということを人の成長と結びつけて理解しています。しかもそれは、体や精神的な成長と言うより、信仰が育つ、というような意味です。もともと、15節の「完全な」という言葉は、聖書の書かれたことば、原語のギリシアの言葉では「成熟した」とか「成長した」とかいう意味を持つ言葉です。パウロにとって、この「成熟」や「完全」さは、自力で達成するべきものというより、それは神から来るものです。神から送られる神の霊が与えてくれるものなのです。それがいつかわからないけれど、信じる者にはいつか必ず約束される霊によって、時が来たら完全になる、成熟した者にされる、そのようなものです。神の力が自分の上に働くとき、神の力が自分を覆うとき、そのときに人は完全な者になる、そのようにパウロは考えています。つまりパウロにとって、人が完全になる、または完全であるのは人が神と共にあるとき、神の前にいるとき、ということです。そのような人の命のあり方をパウロは思い描いています。それをまだ手に入れたわけではないけれど、そのようなものがあるはず、それを目指していきたい、と。
フィリピの教会に対して、「このように考えるべきです」と呼びかけ、招くときパウロの念頭には、それを目指して生きること、それ自体が「完全」ということと結び付けられているのです。まだ達成していなくても、目指して生きることが、完全であると。こうしてパウロが招くのは、その目指すところを達成していなくとも、今手に入れなくとも「完全」であるものです。そしてなお、その目指すところはまだそれぞれの生涯の先にあるものなのです。神と共にあるときだけ、そのようなものとして人の生のあり方が存在することができる。パウロはそのように信じています。
生の目当てが、この世における人間関係にのみつながるものであるとすれば、人の生はその目当てを達成したあとには何も意味のないものになってしまう。また、その目当てを達成できなくても、人の生は意味のないものとされてしまう。人は自分のいのちの歩みに意味を見いだせなくなってしまいます。
けれども、わたしたちはそうではありません。わたしたちには、それぞれの個人の生きることの目的が「完全」であるものと、そして「完全」であることと結び付けられている。そのことの幸いを私たちは喜びたいとおもいます。そしてなおうれしいことにそれはまだ「完全」でもないのです。私たちの生が「完全」でありなお「完全」でないのだとすれば、ひとはどのような状態になっても、何歳になっても、どれだけのことをなしたとしてもなお、生には目標があることになります。人の生は決してむなしいものにはならないのです。そして同時に、わたしたちがどのような状態にあり、何歳であり、何をなしたかなさなかったかにかかわらず、その生には意味が与えられます。
牧師の養成学校で、そしてまたわたしたち一人ひとりが生きる上で、学び取らなくてはならないことは、この事実です。何かを成し遂げることが、またはその能力があると認められることが意味があるのではない。それらの「一切は損失」です。神がわたしたちの人生において成し遂げてくださる「完成」をめあてに生きることこそわたしたちの人生の意味です。